2006.11.05

[書評] 文明崩壊

ジャレド・ダイアモンド:文明崩壊 上・下,草思社,2005

文明崩壊 本書の著者ジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」を読んで影響を受け、関連しそうな本を読んできたことはこのブログでも述べてきた。「銃・病原菌・鉄」が出た当時はそれに近い内容を扱った本は少なかったと思うが、その後「銃・病原菌・鉄」に影響を受けたことにより研究が進んだのか、最近は書店にも並ぶようになったと感じていた。しかし世の中が近づいてきたとき、当のジャレド・ダイアモンドはその先に行っていた。
 「銃・病原菌・鉄」が文明のスタートラインから今日までの道のりを描いたのに対し、本書では今日から向かうかもしれない文明の終焉の可能性を示す。本書は大きく分けて現代の社会と過去の社会の2つから、それぞれ5つの社会を取り上げる。過去の社会はいずれも「環境問題」に適応できずに崩壊した社会である。現代の社会もそれぞれに「環境問題」を抱える社会である。過去の社会の崩壊例を見せられた後では、現代の社会の崩壊も絵空事とは思えない。
 「環境問題」とかぎ括弧付きで書いたのは、本書で取り上げられている環境問題とは、昨今の日本社会において流行で取り上げられているような狭い意味での環境問題ではないからである。日本が島国であるのも、日本人が米を主食とするのも、現在アメリカと仲が良く中国と仲が悪いのも、皆日本を形作る本書で言うところの環境である。こういう意味での「環境問題」であるから、将来本書に由来すると言われるような誤解を与えない訳語を使って欲しかった。
 過去の歴史が何かを証明するわけではないが、将来のことを予測するのに過去の例を参照するのは説得力を持つ。そういう意味で、過去の社会を取り上げた第2部は圧巻である。第2部が本書の中核であるし、第2部だけでも1冊の本になると感じる。しかし主題の裏付けのために取り上げた承や転の部分が中核だと言われてしまうのは、結が弱いからではないだろうか。「銃・病原菌・鉄」は過去の話だったので、多少結が甘くても承転で重要な事実が指摘されていれば、それだけで価値があった。しかし本書の主題は将来の話であり、過去の重要な事実もあくまでも前ふりにしか過ぎない。将来に向けてと題した第4部の結びのための前ふりであるのに、読後も前ふりの印象ばかりが残ってしまって、結局著者は何を言いたかったのか心に残らない。個々の事例研究として第一級だと思うが、「銃・病原菌・鉄」ほどの衝撃は感じられない。☆☆☆☆

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2006.04.10

[書評] 人間ものがたり

ジェイムズ・デイヴィス:人間ものがたり,日本放送出版協会,2005

人間ものがたり 訳者が書いているように、おとなのための世界史教科書という表現がピッタリとくる本である。各章のタイトルの付け方に表されているように、おとなどころかこどもに物語を読んで聞かせているような語り口になっている。世界史というのは、高校生時代に授業を受けた記憶で言えば、時間軸に沿って話が進むがあっちこっちと話が飛んでしまい、全体像がつかめない感じであった。本書は24章に分かれているが、各論の寄せ集めではなく全体を通してのストーリーとして成立している。まさに人間ものがたりである。
 著者は表紙見開きで「わたしたち人類は、なんのかんのと言っても結局は長い時間をかけて、つねによいほうへと進歩してきたのだ」と歴史観を述べている。私はこの著者の考えに全面的に賛成である。よく昔は良かった的なことを言う人が居るが、個人の思い出としてならともかく、社会としてそうだというのであれば、私は断固として反対したい。もし本当にそうなら、あなたはあなたが生きている期間を通じて世の中を悪い方向へ導いてきたのかと問いたい。
 後世の人からあれは間違いだったと言われることがあるにしても、その時点のその人の視点において、みんな世の中を良くしたいと思って行動している。時代,社会を超えて人間ものがたりが書けるのは、この共通する思いが底に流れているからである。☆☆☆☆

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2006.03.23

[書評] ソリトン,カオス,フラクタル

戸田 盛和:ソリトン,カオス,フラクタル,岩波書店,1999

ソリトン,カオス,フラクタル 全4巻からなる物理読本シリーズの第4巻で、副題は「非線形の世界」。第1巻は古典物理の世界、第2巻は量子力学の世界、第3巻は相対性理論の世界を扱っている。第2巻と第3巻は読んでいない。前3巻は20世紀までの物理学という感じがするが、この非線形の世界を扱った第4巻はこれからの物理学という感じがする。これまでの常識では、複雑な現象というのは複雑な原因に由来すると考えられてきた。しかし近年、単純な法則から複雑な現象が生み出されることが解明されてきた。20世紀から21世紀というこの時代に非線形系の研究が発展してきた背景には、コンピュータの進歩によるところが大きい。本書で紹介されているライフゲームはその1例である。ルールは簡単。コンピュータで簡単に試してみることができる。しかし奥が深い。本書を読んで非線形系の面白さを垣間見ることができれば、関連図書に手を出し、虜になっていく人も居るかもしれない。☆☆☆

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2006.03.12

[書評] 世界文明一万年の歴史

マイケル・クック:世界文明一万年の歴史,柏書房,2005

世界文明一万年の歴史 この地球上に人類がたどった歴史は1つしかない。しかしもう1度同じ条件でやり直したら同じ歴史をたどるのであろうか?大河の流域に文明が栄える。これには必然性がありそうだ。だがその場所に大河があったのは、気まぐれな地球の地殻変動が決めた偶然である。歴史そして現代社会のありようには必然性がどれだけ支配していて、偶然性がどれだけ含まれているのか。ジャレド・ダイアモンドはこのような疑問を持ち、1997年に「銃・病原菌・鉄」著した(日本語訳2000年)。
 本書の著者もこの「銃・病原菌・鉄」に影響を受け、本書を著すに至ったと述べている。原題も「A BRIEF HISTORY OF HUMAN RACE」であり、HUMAN RACEと言うところがダイアモンド、そして私の疑問点と共通していることを端的に表している。本書は「歴史が現在の状態に至ったのはなぜか」という第一部から始まり、第二部が「小大陸」、第三部が「ユーラシア大陸の諸文明」と続き、第四部の「世界の均一化?」で締めくくられる。まさしく「銃・病原菌・鉄」の影響を受け、私の関心の核心に迫りそうな構成である。第一部の疑問の呈し方は期待を持たせたのだが、第二部,第三部が各論になってしまった感じがする。それでも第四部に繋ぐのに必要な要素であれば不満はないのだが、そういうわけでもない。第一部はこの本を書くに至った動機、つまり疑問の提示であるが、最後まで読んでこの疑問が解決しただろうか。そんな気がしない。第一部と第二部以降が別物になってしまっている気がする。
 私としては、著者自らが「銃・病原菌・鉄」に影響を受けたと言い、「世界文明一万年の歴史」という題名の450ページもの本ならば、最低でも4つ星を付ける内容を期待していた。各論を読む本だとしても十分に面白いのだが、期待が大きかっただけに控えめな採点にならざるを得ない。☆☆☆

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2006.01.25

[書評] ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち

塩野 七生:ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち,新潮社,1998

ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち 帝政ローマを築き上げた神君アウグストゥス亡き後の約50年間を描く。登場する皇帝はティベリウス,カリグラ,クラウディウス,ネロの4人である。皇帝ネロの治世の始まりの頃に生まれたとされる歴史家タキトゥスの著作「年代記」の中で、この4人の皇帝は酷評されているという。この著作が後世に与えた影響は大きく、「悪名高き皇帝」という汚名はタキトゥスの筆によって伝わったと著者は言う。
 カエサルとアウグストゥスは実力と人気を兼ね備えた英雄であった。しかしその跡を継いだティベリウスは、この2人のようになれないことはすぐに解ったであろう。2人の天才指導者が治めた時代が終わると、やもすると彼らのようなカリスマでなければ国を治めることができないと思われたかもしれない。しかしティベリウスは、英雄でなくても彼らが築いたシステムを守りさえすれば治められるということを示した。人気取りはやらない。だが仕事はやる。皇帝という職業では珍しくクールな職人気質の人物だ。July(カエサル)やAugust(アウグストゥス)のように月の名前に名を残してはどうかと進言されたときに、皇帝が13人になったらどうするのかと言って断っている。彼らの汚名を晴らしたいという著者の思いが含まれているせいもあると思うが、私はティベリウスは非常に好きな人物である。
 続くカリグラ。そしてクラウディウスを飛ばしてネロ。彼らこそ「悪名高き皇帝」として知られており、アウグストゥスや五賢帝よりも有名なローマの皇帝である。彼らに共通することは、先代の皇帝が(善政であったとしても)市民に人気がなかったということである。そして若くして帝位に就いた。現代の日本でも、新しい感覚を持つ若い人に人気が集まるし、世の中を明るくしてくれるのではないかと見られる。周囲からそう見られている事を知っているその若者は、帝位に就いてもなお人気者であり続けたいと考えた。それが人気取り政策に走らせ、国家財政の浪費へと繋がり、ついには暗殺という結末となる。
 人気のある政治家、国民に歓迎される政策、それ自体はもちろん良いことだ。しかしそれが人気取り政策になっていないだろうか。その結果が財政圧迫。ついには・・・。人気よりも実力を示したティベリウスやクラウディウスのような無骨な政治家を待ち望む。☆☆☆

[書評] ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ

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2006.01.22

[書評] 誰が文明を創ったか

ウィル・デューラント:誰が文明を創ったか,PHP研究所,2004

誰が文明を創ったか きっかけは全てジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」にある。ソシュール入門で書いたように言語学に関心を持ったのも、遺伝子で探る人類史で書いたように文明以前の歴史に興味を持ったのもである。言語学や人類遺伝学は文字情報が存在しない時代の人間社会を読み解くツールである。文字による記録のある時代になると、各地・各時代の歴史はそれぞれ掘り下げられていて、それぞれの地域の文化を述べた本もたくさんある。文化・歴史の分野は各論は非常に多いのだが、全体像を俯瞰する本はまれである。たぶん難しすぎるのであろう。だからこそ、なぜそのような文化を持ち、歴史をたどるに到ったかについての根本的な問題を取り上げた本は読みたいのである。
 そこで本書であるが、期待はずれであった。原題は「HEROES OF HISTORY」で「誰が文明を創ったか」とはかけ離れているのだが、それだけではない。まず著者の発想が西洋的な感覚に偏りすぎている。次に文明や歴史というより思想的・宗教的・哲学的・詩的・芸術的すぎる。ある人物やある出来事を書くとして、数多くの中からなぜそのエピソードを取り上げたのかよく解らない。途中斜め読みになったせいもあるが、私には何が言いたいのか全く解らなかった。☆

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2006.01.15

[書評] なぜ「耐震偽装問題」は起きるのか

長嶋 修:なぜ「耐震偽装問題」は起きるのか,講談社,2005

なぜ「耐震偽装問題」は起きるのか 昨年11月に発覚した耐震偽装問題をエサに一稼ぎをしてやろうという本。著者は否定するであろうが、何か世間を騒がす事件・事故が起こるたびに「なぜ○○は起こるのか」といった書名の本が連発されているのだから、またこの手の本かという誹りはまぬがれないであろう(事件の度に著者は異なるであろうが、編集者は同じであろう)。それでも内容があるのなら文句はないが、本書の発行日は12月26日。つまり長くても1ヶ月程度で書いたことになる。今現在でも、これから事件の全容を明らかにしていくという段階なのだから、本書に事件の全容が書かれているわけではもちろんない。現在マンションに住んでいて、この事件の報道を見聞きして不安になっている人を対象に書かれているが、内容は「業界はこうなんです」ということが書かれているだけで、この本を読んだからと言って何か不安や疑問が解決することは全くない。
 そもそも著者は不動産コンサルティングサービスの人間であって、構造設計に詳しいわけではない。私など(構造設計者)から見れば、構造もわからんのに解ったようなコメントするなと言いたくなる。一般人から見れば構造設計者などというのは初めて聞く職業で、ディベロッパーなどと同様に彼らこそが(構造も含めて)建築のプロだと思われている。エンドユーザーに近いところにいる分だけ影響力があるのだ。この関係は学校の生徒と先生の関係に似ている。私なども小中学生の頃は、学校の先生は何でも知っていて、世の中で最も頭の良い人が先生という職業に就くのだと思っていた。実際は全く違う。生徒からは先生の向こうにある世の中は見えないものだ。
 構造設計者から見て、いい指摘しているなと思える文章も幾つかはある。しかしそれは行間を読める人が読んでいるからの話であって、どうでもいい話の山に埋もれた1本の針のようでは一般人がそこに気が付くことはあるまい。
 世間でこの事件が騒がれているうちに、仰々しいタイトルで目をひきつけ売ってしまおうという、予想通りの中身の薄っぺらい本である。私は1時間かからずに読み終わった。暇つぶしにもならない。☆☆
p.s.
 火事場泥棒というか二匹目のドジョウというか、事件・事故報道直後に出されるこの手の本は、中身が薄っぺらいことがわかっているから一般人目線では決して手を出さない。今回は自分の専門分野であるからあえて手にしたまでである。この手の本を買うということは、興味本位の週刊誌と同じで、どうでもよい報道に加担していることになる。

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2005.11.06

[書評] 定刻発車

三戸 祐子:定刻発車,新潮社,2005

定刻発車 本書の発行は2005年5月1日となっている。その6日前の4月25日に死者107名を出したJR福知山線列車事故が発生し、しばらくの期間世の中はこのニュースで持ちきりであった。この事故の報道においては、運転手個人の運転ミスであるという視点はむしろ少なく、JR西日本の社風や鉄道システムそのものに批判が浴びせられていたようである。
 この事故を機に日本の鉄道システムに関心を持った人も多かったであろう。実際、事故はなぜ起こったのかの類の本は、雨後の竹の子のごとく出ている。本書は日本の鉄道システムの優秀さを述べているのだが、ダイヤの正確さを保つ技術の1つとして挙げられている「運転手は巧みなブレーキ操作で遅れを取り戻す」あたりの解説は、福知山線列車事故の直後としては神経を逆なでする部分もあると思う。事故の6日後というタイミングは単なる偶然とは言え、良かったのか悪かったのか。
 日本の鉄道は世界一正確であるという。私自身外国の鉄道に何度も乗ったことがあるので、自らの経験としてもかなり正確な部類に入ることは実感している。外国で感じることは、誰も遅れを気にしていないということである。着けばよいと思っている。日本の場合、気にするから正確になったのか、いつもは正確だから遅れると気になるのか、鶏が先か卵が先かの議論であるが、いずれにせよそういう国民と鉄道を持つに到った。この世界に類を見ない正確な鉄道が生まれた歴史的な背景や、それを維持するための仕組みや技術を検証する。
 日本の鉄道が正確であるとか、工業製品が優秀であるとか言った場合にすぐに登場するのが、日本人は勤勉だからとかいったステレオタイプな国民性である。それは一応の説明にはなっているかもしれないが、ではなぜ勤勉なのかという疑問が出てくる。結局いつどこの人間社会も、歴史的な背景から切り離すことはできない。そしてそのような歴史をたどった要因まで突き詰めれば、その土地の地理的・気象的な要因にまで行き着くであろう。本書の検証は、まさに歴史的・地理的な要因にまで掘り下げられる。そして意外かもしれないが、乗客のために正確を追い求めたのではなく、正確でないと成り立たないという運行側の都合による側面が大きいということが見えてくる。
 また本書で強調されるのは、正確な鉄道を維持しようとする鉄道マンのたゆまぬ努力である。完成されたシステムであっても、それを維持するのはまさしく人間の日々の努力なのである。火事で逃げ遅れた人を助ける消防士は英雄に見える。病気の痛みを鎮めてくれる医者は神にも見える。人の窮地を救う彼らには感謝をするが、平常を保つという努力している人々の活躍に対して、我々の感謝は足らないのではないだろうか。
 鉄道に対する利用者(日本人)の注文が厳しいのも事実であり、それがこの世界で最も正確な鉄道を育てたという背景も当然ある。また日本の消費者の商品に対する厳しさが、国際競争力のある企業を育てている。一流を育てるのは第一級の厳しい眼差しであり、政治が三流なのは国民の甘さ以外の何物でもない。☆☆☆☆

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2005.10.30

[書評] 遺伝子で探る人類史

ジョン・リレスフォード:遺伝子で探る人類史,講談社,2005

遺伝子で探る人類史 本書が扱っているのは、数百万年前から数千年前にかけての人類の歴史である。これまでの学問の枠組みでは、数百万年前から数万年前という年代は人類学の範疇で、主に発掘された骨を手がかりに人類の進化の道筋を明らかにしていくものであった。また考古学と呼ばれる学問は、発掘によるという点では同様であるが、主として人類が文明を築き上げた数千年前以後を対象にしている。ここで空白になってしまうのが、解剖学的には現世人類と区別が付かないが、文明には到っていない数万年前から数千年前の年代である。この年代は人類が世界中に拡散し、また農耕が生まれ、文明前夜と呼べるような人類の歴史にとって重要な時期であるが、学問的には人類学と考古学の隙間になる。身体の特徴や言語の比較といった手法が用いられているが、人類のあけぼの,文明の始まりといった派手さがないし、また文系と理系の境目のどっちつかずな所も研究が進まなかった理由であろう。
 本書では、近年目覚ましい進歩を遂げている遺伝子工学を用いて、人類のあけぼのから文明の始まり前夜までの人類の歴史を追いかける。新しい技術というのはその分野だけで有用なのではなく、実は他の多くの人も潜在的に待ち望んでいるものである。例えばインターネット技術の出所はコンピュータ分野であるが、今では、それまでコンピュータなど触ったことがないという人にまで利用されている。遺伝子工学も、当初の最先端の科学者が考えも付かなかった利用のされ方をするであろう。考えも付かなかったとまでは言わないが、これまで道具が無くて扱えなかったこの空白を埋め、さらに研究の発展に大いに貢献する、待ち望まれた技術であることに異論は無かろう。
 書き方としては、扱う範囲が広いからか、少し駆け足的で結論を急ぎすぎている気がする。また人類学だと思って読んでも、文明前夜の人類の歴史だと思って読んでも、少し物足りない気がする。しかしそれは私自身が既成の枠組みに捕らわれているからで、新しく生まれつつある「人類遺伝学」だと思えば、適当なのかもしれない。しかしまとめが1ページ半なのはやっぱりいただけない。非常に長いスケールで話を進めてきたのだから、全体を総括しての1章分のまとめは欲しい。この辺りは学問的にも著者自身もまだまとまっていないのかもしれない。
 ブルーバックスは、最初は中学生の頃に親に買ってもらって読んで以来、時々思い出したように読んでいる。これまでブルーバックスは、章ごとや節ごとに完結する類の啓蒙書というイメージであったが、本書は1冊で1つの論とする一般解説書の体裁である。本来新書として発売されてもよい内容だと思うが、ブルーバックスっていつからこういうカラーになったのだろうか。☆☆☆

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2005.09.27

[書評] ローマから日本が見える

塩野 七生:ローマから日本が見える,集英社インターナショナル,2005

ローマから日本が見える 歴史を知って面白いと思うことは、歴史的事実そのものよりも、自らが生きる時代に重ね合わせられるところにあると思う。国や時代が異なっていても、人間のやることというのはバカバカしいほど同じなのである。
 本書はローマ人の物語という歴史を書く著者が、ローマの歴史と現在の日本という2枚の紙を重ね合わせて、ローマ側から透かして見るものである。2章から8章まででローマの歴史の前半分(ローマ建国から帝政ローマ初代皇帝アウグストゥスまで)をダイジェストに伝え、9章でローマから日本を見る。
 この本の読者として誰を想定しているのであろうか。ローマ人の物語を読んでいなくてこの本を手に取る読者は少ないと私は思うのだが、そういう人には若干ネタばらしをすることにより、この本をきっかけにローマ史に興味を持つことになるかもしれない。ローマ人の物語の宣伝としては良い。しかし大部分はローマ人の物語を読んでいる読者だと思う。だとすると1章から8章までは不要で、9章の約30ページだけが新しい内容ということになる。
 それに冒頭で書いたように、歴史と現在の重ね合わせによる相違点は自分で見つけ感じるから面白いのであって、誰かに解釈を加えられるのは押しつけがましい。元のローマ人の物語自体が正しくは歴史書ではなく小説なのだから、矛盾する話ではあるのだが・・。☆☆☆

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2005.09.19

[書評] 共感する女脳、システム化する男脳

サイモン・バロン=コーエン:共感する女脳、システム化する男脳,日本放送出版協会,2005

共感する女脳、システム化する男脳 科学というものは本来、その時の国家体制や宗教観や流行とは独立のものである。しかしそれが社会に向けて発表される以上、その時々の社会情勢に無縁では居られない。新たな発見が既存の価値観を覆すようなものであれば、それは細心の注意を払って発表しなければならないのである。その最も著名な2つの例は地動説と進化論であろう。どちらも、人間だけが神に選ばれた存在とされていた時代に見いだされ、時の指導者や教会などから大変な迫害を受けたと言われている。
 本書は男女の発想のパターンの傾向を述べた著作である。男女平等が声高に叫ばれる昨今、男性と女性の脳に違いがあると述べることは、ある意味大変勇気の要る行動である。地動説や進化論ほどのパラダイムシフトではないにせよ、一歩間違えばガリレオ裁判の二の舞になりかねない。科学的な思考をできる人であれば、生物としての差異と人間としての権利の平等は分けて考えられるのだが、世の中そんな人ばかりではない。そんなことから著者は、あらぬ誤解を受けないよう文章の端々に「男女の違いを示してるだけで、どちらがより良いと言っているわけではない。」との意味の言葉を挟んでいる。
 しかし私には、そんなことに気を取られ過ぎていて、肝心の内容が少し浅いように思われる。進化の過程で、男性はシステム化することが、女性は共感することが、淘汰されずに残ってきたのであるが、そこの説明がかなり足りない。進化論については多少本を読んできた私でももう少し突っ込んだ説明ができると感じた。また極端な男性脳の発現形として自閉症が挙げられているが、極端な女性脳の発現形は不明であるという。何でも共感してしまう極端な女性脳は生活に支障が生じないから医師などの診断を受けない、だから発見されないというのがその理由である。しかし医師の診断を受けるかはともかくとして、極端な女性脳というのは、人の言うことをすぐに信じてしまい、よく騙される人ではないだろうか。良くも悪くも女性は流行に敏感で、宣伝に反応し、あなたを幸せにするという言葉を信用して結婚相手を決める。完璧な女性脳であれば騙そうとしている人の心も見抜いてしまうのだろうが、極端だが完璧でなければ、表面的な言葉や宣伝に疑いを持たずに共感してしまうであろう。この辺まで突っ込んだ議論が欲しかった。若干尻切れとんぼだ。☆☆☆

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2005.09.14

[書評] マクスウェルの魔

戸田 盛和:マクスウェルの魔,岩波書店,1997

マクスウェルの魔 全4巻からなる物理読本シリーズで古典物理の世界を扱った第1巻。一般向けに広く浅く取り上げた本であり、このような目的で書かれた本は珍しくはない。しかし他とは違う何かがある。ハウツー本のようにあるトピックスを取り上げて解説を付けているわけではない。どちらかというと読み物である。人類が疑問に思ってきたこと、原理を発見してきたことを歴史を追って順に取り上げている感じがする。この順番というのは読者の疑問の順と言ってもよい。だから読みやすい。高校生はもちろん中学生でも頑張れば十分に読める。だが幅広く取り上げて説明が最小限だから物足りない気もする。縦書きで数式はほとんど無いから、文系向けの物理の教科書といった感じがする。☆☆☆

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2005.09.08

[書評] ケプラー予想

ジョージ・スピーロ:ケプラー予想,新潮社,2005

ケプラー予想 大砲の弾やスイカといった球体を最も効率よく詰め込む(球の最密充填)にはどのように詰めたらよいのであろうか。実用上最密と思われているのは、正三角形に並べた3つの球によってできる窪みに4つ目の球を置く六方最密充填と呼ばれる方法である。この積み方はケプラーに言われずとも、果物屋であれば誰でも使っている。ケプラー以前から漠然と最密と思われてきた配置を、ケプラーは1611年にこれが最密であるという予想を立てた。しかしそれを証明するとなればそれほど簡単なことではない。そしてこれが証明されるのに387年という年月を要したのである。
 1900年にパリ万博に合わせて開かれた国際数学者会議において、当代随一の数学者ヒルベルトは「数学の諸問題」との題で、20世紀に残された23の数学上の未解決問題を取り上げて講演を行った。その18番目の問題のその3としてこのケプラー予想が取り上げられている。ここに登場する23の問題のほとんどは、私のような素人にとって問題の意味さえ解らないであろう。またフェルマーの大定理のように問題の意味は解るが、答えの予想は着かないというのもある。しかしこのケプラー予想に関しては、果物屋はおろか私でも問われればこの配置を答えるであろう。それが何の役に立つのかという高等数学全般に向けられる疑問は、フェルマーの大定理のような数論に向けられることが多いが、このケプラー予想も実用上の解が得られているという意味において、この問題にも向けられるであろう。
 このケプラー予想の物語の思わぬ展開は、それがコンピュータの力を借りて証明が成されたという点である。もちろん力ずく数値的に解いても証明にはならないから、そういう意味で使われたわけではないが、さすがのヒルベルトもこういう証明が成されるとは思っていなかったのではないか。ただし現在示されているよりももっとスマートな証明が成される可能性はある。
 誰もがケプラー予想が正しいと思っていた。ただそれを証明できなかった400年。誰もが答えを知っている問題を証明するのに、これほどの苦労を要するとはケプラーも予想していなかったのではないか。☆☆☆

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2005.09.07

[書評] 相対論の正しい間違え方

松田 卓也,木下 篤哉:相対論の正しい間違え方,丸善,2001

相対論の正しい間違え方 なかなかユニークな本だ。著者らはこれまでの相対論に対する議論を目の当たりにしてきて、このような大人が子供を諭すような本を書かずには居られなかったのであろう。
 私事であるが、最近著者らと同じような経験をしている。昨今世間で盛んに使われ始めたある指標がある。その指標は営業上の1つのツールとなるのであるが、それを用いている人(営業側,客側とも)のほとんどはその指標の意味するところを知らないまま、あるいは誤解したまま使っていることである。そしてさらに始末に悪いことに、意味が解っていないのにその数値の大小に一喜一憂していることである。時々どういう意味なのかとかどのように求めるのか尋ねる人が居る。しかし説明しても、自分の思いこみと異なるからという理由で納得しない人が居る。こちらにしてみれば、引っかかるポイントというのは皆ほとんど一緒であるから、またかと思う。誰もが疑問に思うと解っているのであれば解りやすく説明できるものを用意しておくべきであるが、事は確率・統計の話で、1の目が出る確率1/6のサイコロを6回振ると1の目が出る確率は1であると求めてしまう人に説明するのは、論点の説明以前の問題なのだ。
 著者らも、相対論以前の問題をも理解せずによく解らないという人や、自分の理解と異なるから相対論がおかしいと主張する人にはだいぶ困らされたようである。前者は仕方ない部分もあるが、後者の特に出版などを通じて無垢な人々に誤った解釈を広めていくのは罪ですらあると感じているであろう。
 世の中には似非科学やトンデモ本と言われるものがある。もちろん自ら名乗っているわけではなく、周りから箸にも棒にもかからないと判断されると、この扱いを受けることになる。これらは通常、現在主流とされている論が誤りであると主張する。しかしこれだけで決めつけることはできない。正当な反論というのも当然存在する。すると何が正当で何が正当でないかの線引きがどこにあるかということになるが、多分それはその道の人間であればうまく説明できなくても解っていると思われる。例えば素人にはその芸術性がよく理解できない前衛的な崩した文字や絵画。しかしその道に通じた人であれば、お手本のような楷書、細やかなデッサンができる人があえて崩しているのか、それともそうでない人がもどきを行っているのか見抜くであろう。科学であっても同様で、誰を相手にしているのか、議論となっている以前の基本的な事柄を理解しているか、最新の研究動向に通じているか、論の体裁(起承転結,参考文献)を成しているかなどを見れば、まず読む前に読む価値があるか(科学)否か(似非)はおおよそ判ってしまうものである。トンデモ本などは過激に書かれているが、内容で勝負できるなら過激に書く必要など全くないのである。
 この本は似非理論を唱える人、そんなつもりはなかったが似非の書物を読んでしまい(素人に線引きはできないから)信じてしまった人、ちゃんとした勉強をしたが今ひとつ納得しきれない人、すべての相対論に関心を持つ人を対象に、相対論のありがちな間違えを取り上げ、1つ1つ丁寧に本当はこうなんだよと解く。しかし相対論を学ぶ最初の本とするのはお薦めしない。世の中の混乱ぶりを知る前に読むのは面白さ半減である。中身が解らなくても、科学者が似非科学をどう見ているかという読み物としても面白い。
 私は物理に関しては素人なので、実際のところ相対論を完全に理解しているわけでもないし、どちらが正しいのか判断できるわけでもない。しかし、手続きを踏んでいる、歴史的に持ちこたえている、体裁を成している、商業的な匂いを感じないといった、本来の理論とは関係ないが、素人というのは意外とそう言うところを見ているのではないか。政治家や生保の外交員もそう。あなたの言っていることは難しくてよく解らないが、あなたは信用できる人物のようだからあなたの言っていることを信用してよいのだろうと。☆☆☆

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2005.08.03

[書評] 文明が衰亡するとき

高坂 正堯:文明が衰亡するとき,新潮社,1981

文明が衰亡するとき
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。
猛き者も遂には亡びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 有名な平家物語の冒頭である。栄枯盛衰が世の常であることは誰もが知っているが、自らもその世の常に含まれているのだということに、人はなかなか気が付かない。
 本書が取り上げている文明は3つあり、3部構成になっている。第1部が古代ローマ帝国で、第2部が中世ヴェネツィア、第3部が現代アメリカである。いずれも文明と言えるほど影響力を及ぼした国々であるが、本書の内容からは国家という方が適当かもしれない。
 ローマはあらゆる意味で古今東西最も研究されてきた国家であろう。長期間にわたって強大であったために、その衰亡論に関心が集まってきたのも不思議なことではない。本書でも過去の研究を無視して話を進めるわけにはいかないので、どうしても著者自身の考察の出番は少ない。
 アメリカは現代の国家であり、現在の世界帝国であるから、奢れるアメリカ久しからずという論は数多い。しかし本書は1981年の著作なので、現代国家の衰亡論としてはいくらなんでも古くなり過ぎている。ベトナム戦争には敗北した。ドル安は進んでいる。これらを衰亡の予兆としているわけだが、一方で自己中心主義を改めればまだまだ持ち直すだろうとも言っている。24年経つ間に、円高がさらに進みマンハッタンのビルが日本に買収されたりもしたのだから、1度は衰亡したのかもしれない。しかしすでに時代は1周し、1度は改めたはずの自己中心主義も再び首をもたげ、今度はイラクで泥沼にまみれている。
 本書の中で最も興味深いのは、第2部のヴェネツィアである。ヴェネツィアは都市国家でありながら、海上貿易を主体に地中海でもっとも影響力を持つ国となった。しかしいくら中世と言えども、400年にも渡って栄えているうちには時代も変化する。ヴェネツィアが衰退した原因の大部分は、時代が変わってしまったことである。もう1度歴史をやり直しても多分どうにもならないであろう。こういう部分はあまり後世の参考にはならない。しかし選択を誤った部分も多くある。日本はヴェネツィア同様、資源を持たない通商国家であるから、ヴェネツィアの教訓は最も生かされて良いであろう。☆☆☆

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2005.07.21

[書評] 希望格差社会

山田 昌弘:希望格差社会,筑摩書房,2004

希望格差社会 戦後の高度経済成長時代がバブルという最後の花を咲かせて散って以降、現在の日本は先の見えない不安な時代と言われている。これは社会の様々な場面で、これまでの価値感が通用しなくなってきているためである。
 これまでの日本は、経済的には恵まれていなくても、人並みに努力していれば自らの将来像が描ける社会であった。現在、経済的にははるかに恵まれており、さらには職業や結婚相手を自由に選ぶこともできる。しかし自由な選択ができることと、希望が叶うことは別問題であり、勝ち組・負け組の格差が生まれるようになった。自らの努力で埋められる格差であれば自由競争の結果と納得もできるが、今の日本には個人の努力ではどうにもならないような格差ができており、それが拡がっているのである。努力しても結実するかわからない、さらには努力しても仕方ないと思わせる社会、これを「希望格差社会」と著者は命名している。お金がないのではない。希望がないのである。人はパンのみで生きているわけではないのである。そしてこれは社会の構造的な問題であるので、経済が回復しても解決しないと指摘する。
 本書は、これは著者の長年の調査研究に基づく確固たる成果の集大成であると考える。しかしようやくまとめた成果を背伸びして著したものではない。著者自身が一度組み立てた持論を、噛み砕き直して著しているはずである。それは章立てや論旨の展開に否の打ち所がない無いところに現れている。持論に陰りがないから、多分子供にもうまく説明できるであろう。平易な表現と随所に示された議論を補足する図解やグラフにより、読者に対する説得力が非常に高いのである。
 本書の詳細な論をここでうまく示すことはできないので、案ずるよりも是非本書を読んでもらいたい。☆☆☆☆

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2005.07.18

[書評] 暦と占いの科学

永田 久:暦と占いの科学,新潮社,1990

暦と占いの科学 占いの類には全く興味がない私だが、暦となると話は別である。○○座の星占いや大安・仏滅の六曜、一白・二黒の九星術、甲(きのえ)・乙(きのと)の十干、子・丑・寅の十二支。大寒・立春は二十四節気だし、土用は陰陽五行説に由来する。この辺りは日常無くても問題は生じないが、月・火・水の曜日や1月・2月の月となると、話は違ってくる。いずれも月日に対して何かを割り当てているという点で共通しているが、現代では前者は占いの部類に属し、後者は暦の部類に属する感じである。後者には必然性を感じるかもしれないが、実際にはそうでもない。曜日はなぜ7つなのか、大の月・小の月の割り振りと端数が2月なのはなぜなのか、これらは大きな疑問である。しかもこの暦は太陽暦を使う全ての国々で同一なのである。占いのように感じる割り振りも、暦のように感じる割り振りも、結局のところ天文の動きや気候の変動、もしくは宗教的な意味と、そのすべてが何某かの理由によって決定されてきている。その理由を解くのが本書である。割り振り自体は区切りや目安として便利であるが、○○の日だから幸福とか不幸という考え方と結び付いたときに、暦は占いになる。ただ古代では暦と占いは同一のものであった。暦もしくは占いは様々な時代の様々な世界観の反映であり、現在のカレンダーを見れば古代人の世界観が溢れていることが解る。
 内容的には以前読んだ、「暦をつくった人々」と重なるところも多いので、新たな満足感は少なかった。☆☆☆

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2005.07.12

[書評] 文化人類学入門

祖父江 孝男:文化人類学入門,1990

文化人類学入門 文化人類学には興味があるのだが、なかなか簡単に読めそうなこれだという本が見つからない。ひとつには、一口に文化人類学といってもその網羅する範囲があまりにも広く、実際本になるときには各論の形になってしまうからではないかと思う。その点で本書は文化人類学が扱う領域を広く浅く書いており、その内容も読みやすい。本書の初版は1990年であるが、増補改訂前の初版は1979年である。回転の速い現在にあって、26年もしくは15年も前に書かれた本が未だに版を重ねているのは、その後に文化人類学全体を扱った良い本が出ていない証拠でもある。このような入門をきっかけに興味のある各論を読み進めていけば良いのだが、巻末に挙げられている「おすすめしたい参考書」,参考文献とも古いものばかりであるので、それも難しくなってしまう。その内容に大きな進展はなくとも、新しい本の出版を待ちたい分野である。☆☆☆

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2005.07.10

[書評] なぜフェミニズムは没落したのか

荷宮 和子:なぜフェミニズムは没落したのか,中央公論新社,2004

なぜフェミニズムは没落したのか 最後まで読まずに書評を書くのも良くないかもしれないが、読むに耐えなかったというのもまた事実である。本書で取り上げている内容は、学校のクラスによくある女子グループ間の意見の対立にしか思えない。フェミニズムのみならず、新しい考え方が普及するか否かは、結局はその考え方が多くの人の心を捉えるかどうかに係っているのであって、渦中に居ない人にとってはまず大所高所の議論に説得力があることが重要であると思う。しかし本書では、私から見れば右でも左でもいいような些細なことを、あっち派こっち派(例えばアンアン派とJJ派)と言っているのにしか感じられない。あっち派とこっち派の議論がこの程度の重箱の隅を突いたような言い争いであるならば、フェミニズムが没落するのも当然と言えよう。また著者が自らの世代を「くびれの世代」と呼び、他と一線を引いているのだが、これも端から見れば大差のない線引きであって、自分の周りの狭い領域とそれ以外という視野の狭い議論に終始している。これでオピニオンリーダー気取りなのかと、読んでいて情けなくなる。読むのも時間の無駄、書評を書くのも時間の無駄である。
 中公新書ラクレは2冊目だが、2冊ともビックリするほどひどい内容であった。たまたまの偶然かもしれないが、この新書シリーズ自体に疑いの目を持っている。☆

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2005.04.08

[書評] 吉田茂とその時代

岡崎 久彦:吉田茂とその時代,PHP研究所,2002

吉田茂とその時代 満州事変後から終戦までを描いた前著重光・東郷とその時代は、考えさせられることが多かった。本書はその続編に当たり、1945年8月15日の終戦から1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約までの占領時代を描いている。
 前著では「現在生きている人間の価値観だけで歴史は書けない」として、序章を設けて自らの立場を打ち出していた。本書では序章の代わりに「公正な日本近代史を阻むもの」という最終章を設けて、著者の考えの総括を述べている。本書は明治維新以後の日本外交史を描いた一連の著作(全5巻)の最終巻に当たり、むしろこの最終巻の最終章を書きたくて歴史の流れを綴って来たのではないかと感じられる。
 著者は、現在にまで続く戦後の日本人の戦前戦中史観は、本書が描くこの占領時代に作られたとし、この占領が日本人の思想に与えた影響を最終章のみならず随所で指摘している。著者の言う現代日本人の史観とは、自虐的な左翼史観ということであり、特に東京裁判の被告が悪であり、占領軍の力によって現在の憲法ができたという、まとめて言うと戦争に導いた人間及び国家の枠組みは外圧によって排除されたと信じる史観のことである。
 私自身も戦中生まれの両親を持つので、著者の言う戦後の後遺症から抜け切れていない世代ということになるが、私から見ると著者は相当右寄りに感じる。前著ではほとんど気にならなかったが、本書では読んでいてどうかと思う記述も少なくなかった。少なくとも戦後60年という時期の日本人の平均値から見て、右に居ることは著者自身も自覚しているであろう。しかし著者は、戦後100年経過すれば戦後の後遺症から抜け、偏向のない史観が築けるであろうとしている。著者の一連の著作の目的は、この偏向史観のない世代に向けて「歴史の真実」を伝えることにあるので、現代という時代において賛否両論になるのは織り込み済みであろう。むしろ著者は議論が沸き上がることを期待し、いつでも受けて立とうという気構えを持っている。本書が顧みられるか忘れ去られるか、時代の判断を待つしかない。☆☆☆

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2005.04.06

[書評] コンスタンティノープルの陥落

塩野 七生:コンスタンティノープルの陥落,新潮社,1983

コンスタンティノープルの陥落代 この本を読もうと思った理由は2つ。1つはローマ人の物語シリーズの巻末に、この著者の過去の著作が載っていたこと。もう1つは今年トルコへ旅行に行こうと思っていることである。現在のトルコの領土は、紀元前1世紀にローマの版図に入って以来、その後ローマの分家であるビザンチン帝国に引き継がれ、本書がテーマとする1453年5月29日にオスマン・トルコ軍によってコンスタンティノープルが陥落するまで、まさしくヨーロッパであった。
 ローマ人の物語を大変面白く感じている私としては、同じ著者の本書に大変期待していたのだが、読後感は今ひとつであった。「その時、歴史が動いた」ではないが、コンスタンティノープルがヨーロッパで無くなった日を描いていることから、歴史上の重要性は最大限と言って良い。しかしその出来事を忠実に伝えようとしているのか、人物の喜怒哀楽があまり伝わってこない。守るビザンチン帝国皇帝コンスタンティヌス十一世の人物像は伝わってくるのだが、攻めるオスマン・トルコのスルタン(皇帝)マホメッド二世の言葉は「あの街をください」しかなく、人間らしくない。
 現在のトルコはEUに加盟したいと言っているが、ヨーロッパでないという理由で既加盟国から反対されている。EU加盟の要件は具体的には知らないが、地理的にはイスタンブールも含めて現トルコの領土の一部はバルカン半島にあり、ヨーロッパの一部と言える。しかし心情的には、キリスト教であるかという部分の方が大きいように思う。このコンスタンティノープルの陥落=ビザンチン帝国の滅亡によって、この土地はキリスト教徒の領土で無くなり、それはつまりヨーロッパではないということになった。こういう歴史的背景を知ると、現在のEU加盟反対は550年前の出来事を持ち出して復讐しているようにも思える。
 この歴史の舞台となったコンスタンティノープル、現イスタンブールはヨーロッパとアジアを繋ぎ、有史以来のほとんど全ての時代で世界の最重要都市であった。歴史を学んでからその土地を訪れるのはまた格別な思いがある。☆☆☆

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2005.03.30

[書評] ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ

塩野 七生:ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ,新潮社,1997

ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ この巻の主人公であるアウグストゥスは英語の8月に当たるAugustの語源として名前ぐらいは知っていた。ちなみに7月に当たるJulyの語源はユリウス・カエサルのユリウスである。カエサルと並び称されるアウグストゥスであるが、彼についてはまあ何も知らない。しかし月の名称になっているのはこの2人だけなので、相当な功績そして人民から慕われる名声を残した人なんだろうぐらいには思っていた。カエサルとアウグストゥスは2人とも偉大であるが、ひとことで言うと、古い秩序を打ち壊したカエサルと新しい秩序を築いたアウグストゥスということになるのではないだろうか。
 著者は何かにつけて彼を後継者に指名した義父カエサルと対比させて描く。この著者だけでなくこれまでの歴史家たちもそうしてきただろうし、周り中全てがカエサルを知る人々だった当時も第一人者として比較されてきたであろう。また著者や歴史家が想像するように、実際本人自身も常に意識していたのではないか。著者はカエサルとアウグストゥスの性格の違いから、政策の進め方の違いを解く。面白いのは違いは政策の進め方の違いであって政策そのものではない。政策の中身ではアウグストゥスはまさにカエサルの後継者なのだ。アウグストゥスがカエサルと並び称される理由、それはカエサルが絵に描いた理想を現実のものにした政治手法そのものであると感じた。
 著者の描くアウグストゥスは慎重、悪く言えば計算高い。カエサルが古い秩序を打ち壊したと言っても、全てが賛同されていたわけではない。だからこそ暗殺された。カエサルの理想は、ある意味進め方が急すぎてカエサル自身は実現することが出来なかった。どんなに素晴らしい政策でもそれを実現できなければ意味がない。しかし彼はそれを押し進めた。そして結果としてローマに平和(パクス・ロマーナ)をもたらした。昨今改革という言葉はどこでもお題目のように唱えられるが、組織のトップに立ったからといって、全てが思い通りになるわけではない。根回し、取り引き、時には独断、懐柔、妥協。ありとあらゆる手法を必要とする。自らの理想が周囲と相容れない場合は特にそうである。周りに理解されない状況の中で物事を断行できる人物。彼のような人物の必要性は現代でも全く変わらない。むしろ武力に訴えることができない現代にこそ、より重要性が高いのである。
 アウグストゥスの臨終の言葉とされる「舞台から去る私を拍手で送ってくれ」は、「ブルータスお前もか」と同様に本書には登場しない。彼らしい計算された言葉であるが、出来過ぎの感も否めない。政策を進めるために常に冷静だった感のあるアウグストゥスを言い表す後世の作ではないか。むしろ著者が描いているような、晩年は身内の不祥事に手を焼き、後継者選びに血縁にこだわり続けていた、欲や苦悩を持つひとりの人間オクタビアヌスを彼本来の姿と見る。☆☆☆

[書評] ローマ人の物語VII 悪名高き皇帝たち
[書評] ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後

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2005.02.23

[書評] 確率と統計のパラドックス

スティーヴン・セン:確率と統計のパラドックス,青土社,2004

確率と統計のパラドックス 最近、確率・統計を題材にした本やパラドックスを扱った本は、興味があってそれぞれいくつか読んでいる(確率・統計で世界を読む統計学でリスクと向き合うパラドックス大全)。そこで見つけた本書である。原題は全く違うのだが、興味の対象を足したような和題にピッタリフィットして買った。
 確率・統計は、感覚的に正しいと思っていることが実は誤っていたり、もしくはその逆だったりを無機質に表現してしまうので、それ自体がパラドックスとも言える。本書の内容は、パラドックスそのものが取り上げられているわけではなくて、上記のような意味に捉えるのが適当である。数学的な専門書以外の確率・統計を扱った本は、一般の人に確率・統計を理解してもらうことを目的に、ともすればハウツー本的に平易に書かれているのが普通である。また「数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活」のように、知らないと大変なことになるよと押しつけがましい本もある。
 本書の著者は医学統計学者で、そう言う意味では扱う題材も「数字に弱い~」とほぼ同一である。しかし本書の内容はだいぶ高度で、新薬の臨床試験結果からその効果の有意性を示すといった著者の日々の格闘の中から、逆説的な事柄を取り上げている。数式もところどころに出てくるし、数学的に難しい説明もある。だから確率・統計、特に検定や尤度といったことに、より知識を持ってから読めばさらに面白かったのではないかと思う。
 本書では非常に多くの数学的な定理や手法が、必要なところで順を追って取り上げられている。初登場の際にはその説明するが、その定理や手法に関わった人物のエピソードを、なぜか必ずその生まれ育ちから紹介している。定理・手法そのものにまつわるエピソードとしても、パスカルの三角形やポアソン分布はどちらも本人が発見したものではないとか、脱線話も結構面白い。
 昨今のテレビ番組では、2人や3人に試してダイエットの効果ありというような、安易な臨床試験が氾濫している。しかし効果があるのかないのか、副作用に対して安全か危険か、現実はそんなに簡単に割り切れるものではない。結論を出すにも正確な手法が要求される。そんな割り切れないものを割り切る数学的な手法を伝えるのが本書である。本来数字の前にはたくさんのただし書きがある。しかし情報の伝え手は数字だけを一人歩きさせる。そんな一人歩きした数字に